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レス・クレイプール 「"変態"と言う名の"天才"」 寄稿・Yukiさん

どこのジャンルにもいわゆる"変態"というものが存在する。あの抽象画家のピカソだって絵の世界に出たばっかりの時は誰にも認められず頭がおかしいだの変態だの言われてきた。

これは著者の勝手な思い込みかもしれないが、みんなと同じことをやらず自分のスタイルを貫き続けながらなお人々から変態呼ばわりされるようなアーティスト(アーティストとはかぎらないが)こそ本当の挑戦者なのかもしれない。

しかし“プライマスサックス(プライマスは最悪だ)”をキャッチフレイズに、アメリカで最強の名を貫くミクスチャーロックバンド“プライマス”のべーシスト、レス・クレイプールは人々から変態と呼ばれ続けると同時に、デビュー当時から天才と言われ続けた挑戦者の一人である。

今回は日本ではほとんど明らかになっていない変態天才べーシストの軌跡を語ってみようと思う。

レス率いるプライマスは日本で知っている人は同じミクスチャー系バンドのレッチリと比べるとかなり少ないが、本国アメリカではコアなファンもいてミクスチャーロックをやる人には常識のロックバンドである。
ミクスチャーと言ってもかなりファンクよりで、曲によってはギターのリフはメタルなのにもかかわらず、レスはファンキーなスラップをしながら素っ頓狂な声で奇妙なメロデイーかなんなのかわけがわからないヴォーカルをとる(一部ではメタルって説も)。
プライマスの音を軽く分析すると、ベースがメインとなるリフを奏でその上にヴォーカルがのりギターがもう一つのリフ(基本的にプライマスは一つのリフの上にさらにもう一つリフが乗っていて3ピースなのにかなり音が厚い)と所かまわずにソロを延々と奏で時たまベースとユニゾンをする。一方、ドラムはフィル・インの嵐ときたものだ。この時点ですでに変態だ...
実際のところプライマスはどのジャンルに属すのか謎のバンドである。

レスのプレイスタイルを語ると彼の場合は無限である。主に彼がやる演奏法はロックには珍しくスラップやコードプレイを主体とした演奏だが、レスは完全にスタンリー・クラーク、ラリー・グラハム、マーカス・ミラー、ヴィクター・ウーテン、フリーなどのいわゆる“スラップ・ヒーロー”の一人である。
他にもベースをクランチトーンでしかも爪でギターのカッティングのようなコード奏法をしたり、タッピング(タッピングで作ったリフ)をしながらヴォーカルをとったり、高速スラップをしながら何事もないかのようにスローテンポで歌ったり、アップライトベースにディストーションをかけて弓で奇妙なリフを奏でたり、六弦フレットレスでスラッピングの嵐を奏でたり。
とりあえず誰もやりもしないだろうと思われるプレイをどんどんやっていっているのであるがまず彼のことを言葉でとやかく言うよりもまず彼のレコードを聞いたほうが解りやすいだろう。

日本ではあまり知られていないプライマス、初心者の人には“ディー・エム・ヴイ”、“ジェリー・ワズ・エイ・レースカー・ドライバー”、“トミー・ザ・キャット”、“ジョン・ザ・フィッシャーマン”、“ミスター・クリンクル”、“マイ・ネイム・イズ・マッド”等がお勧めだ。 どれもこれも彼らの代表作品と言われるもので、今まで誰も聴いたことがない音楽といっていい作品ばかりだ。

レスリー・エドワード・クレイプール(レス・クレイプール)は1963年9月29日、アメリカ合衆国カリフォニア州に生まれた。 彼は中学に入った頃になぜか楽器を始めたいと思うようになり、トランペットに挑戦しようとトランペットを始めるが、彼曰く出っ歯だからあきらめるように言われたそうだ。他にもクラリネット等にも挑戦したがすぐ飽きてしまったようだ。
そうやって管楽器をいくつか挑戦しておきながら音楽をすることをあきらめかけたとき、彼はベースギターに触れることになる。
彼曰く“最初はベースとギターの違いなんて分からなかったんだ、僕にとってはただの電気を通す“物”でしかなかったからね” それから初めて彼は弦が四本ある楽器(ベース)の音を聞いて“ファットで音がでかい”と言い、一方ギターのほうを“ビンビンして面白くない”と言ったそうだ。
そして高校に入ってから、レスはカーク・ハメットに出会う。 カークはレスにジミ・ヘンドリックスを聞かせ、その後すぐに自分のバンドでヴォーカルをやってくれと頼む。しかし当時レスは内気だったため人前で歌うことを嫌っていてその誘いを断ってしまう。
その後カークはヘヴィーメタルバンド“メタリカ”を結成する。

これはメタリカもプライマスも両方メジャーデビューを果たしてからの話だが、メタリカの初代べーシスト、クリフ・バートンがあの有名はバス事故で他界したすぐ後、カークはまたレスをたずねメタリカのべーシストにならないかと誘う。 しかしレスは“コテコテのへヴィメタ”には興味はなくまたしても彼の誘いを断るのだった。
レスがメタリカに加入... カークはプライマスがどういうバンドか知っていて彼をメタリカに誘ったのだろうか??現在、レスがプライマスやオイスター・ヘッド等のバンドで果たしている役割からしてメタリカに加入などかなりありえないことである。 しかしレスとカークとはいまだに仲がいいのか、ライブでのベースソロではメタリカの“マスター・オブ・パペッツ”をスラップで弾き倒したり、プライマスのメタル系ナンバーを弾くときに“ウィ−・アー・メタリカ”などジョークを飛ばしレス流に彼らに敬意を表している。

それではまた話をもどして。 高校生活中レスは彼の周りで一番ギターが上手かった言われていたマーク・ビーダーマンに出会い彼のバンドがべーシストを募集中だという話を聞いてレスはどうしても彼のバンドに参加したく父親にベースギターを買ってくれと頼む。 この時、ベースに関して無知だったレスにとって唯一のベースヒーローはポール・マッカートニーだったと言われている(っというかべーシストは彼しか知らなかったようだ)。 そして念願のファーストベースを手に入れマークのバンドに加入。(他社が作ったフェンダーのプレシジョンベースのコピーだったそうだが、そんなことは関係ナシにファーストベースを手に入れたことにひどく感動したそうだ)

ベース買った時点ではレスは全くベースの弾き方もわからなく、そのままマークが結成したプログレッシッヴバンド“ブラインド・イリュージョン”に加入してしまう、ブラインド・イリュージョンはカヴァーを一切しないバンドでマークが作曲しているときなどにマークがベースラインも作りレスに弾き方を教えたそうだ
そしてブラインド・イリュージョンで活動中の時レスはカナダ出身のプログレバンド“ラッシュ”にはまることになる、レスが彼らのライブいったときラッシュのべーシスト、ゲディー・リーの手元しか見ていなかったそうだ。 そのときレスは“プロになるならゲディーぐらいまで上手くならなければならない”とプロのレベルに気付かされたそうだ。
ラッシュのヴォーカル、ベース、キーボードを担当するゲディー・リーはレスにとって唯一影響を受けたべーシストで心の師匠でもあったそうだ。

色んなバンドのコンサートへ通うことが自分にとって一番ベースを学ぶのに適していると気付くと同時にレスは当時のほとんどのミュージシャンがベースを二本の指、つまりツーフィンガーピッキングでベースを演奏していることに気付く、そこで彼はベースを早く弾くときはただ単純に三本の指を使えばもっと早く弾けるかもしれないと思い、それからスリーフィンガーピッキングを始めたらしいが、あきらめたのか、彼のライブビデオを見る限りではスラップやタッピングをするとき以外はほとんどツーフィンガーピッキングでベースを一心不乱で弾いている。

そしてその秋、レスは友達に学校のジャズバンド部に入らないかと誘われるが彼は楽譜が読めないまま入部届を出してしまった。
そしてレスはジャズバンドの初リハ早々バンドのドラマーと喧嘩になった。そのわけはレスが楽譜読めずベースを一切弾いてなかったことを馬鹿にしていたことにレスが腹を立て学校のベースアンプが壊れていて音が出ないんだと言って喧嘩になったそうだ。
リハ−サルの後レスは顧問の先生に本当は楽譜が読めないことを言い、彼にベース譜の読み方を教えて貰う、その学期間限定だったジャズバンド中彼はずっと苦労していた。

ジャズバンドの後レスは学校でアップ・ライトベースを習う機会に出会い学ぶことになる、そのとき学校のビックバンドにはダンサーもいてスィングのある曲を弾いたりして学校では色々盛り上がったそうだ。
当時のことを雑誌のインタビューでは“スィングのある曲をプレイしてあんな面白いことは今までなかったよ。年寄りの人とかまで参加して楽しく踊ったりなんかして

それからレスはブラインド・イリュージョンでプレイしていた範囲の限られたメタルからファンクミュージックへ興味が惹かれていく、彼はスタンリー・クラークの“アイ・ワントゥ−・プレイ・フォー・ヤ”をスタンリー・クラークが誰なのかもわからずコピーした、それからレスはスタンリー・クラークの演奏法に完全に“ハマッて”しまう、そして彼も“弦を(親指で)ひっぱたきフィンガーボードの上で跳ねさせる演奏法”つまり、スラップに変え、普通にベースを爪弾くよりスラップをしているほうが長くなり彼の親指はタコでかなりでかくなったそうだ。

高校の最上級生になってから、レスはオークランド(カリフォルニア)にある“リオ楽器店”でブラブラしていたある日レスはカール・トンプソンのピッコロ・ベースを店の端っこのほうに置いてあるのを見つける。

レスはスタンリー・クラークのCDカヴァーにそのベースギターが写っていたことを思い出しイエスの“ラウンダアバウト”を演奏し音をチェック(レスはベースの音を調べるときいつもイエスの曲を弾いてチェックしていたそうだ)。チェックした瞬間、レスはこんな不細工なベースでこんなにスラップが簡単に弾けるなんてと驚き、一発で気に入ってしまった。(ってかイエスのラウンダアバウトをスラップで弾くなー)
そして家に帰り父親に頼み込みカール・トンプソンのピッコロ・ベースを手に入れる、これが現在でもメインに使われレスのシンボルとなっているトレモロアーム付きのピッコロ・ベースである。

1982年、レスが19歳のころ、彼は“トミー・クランク・バンド”に加入、レス以外のメンバーはみんな20〜30歳前後(この時点でレスはすでにブラインド・イリュージョンを抜けている)。
このときレスはフュージョンにはまっていたがトミー・クランク・バンドはR&Bとブルースを演奏していた。彼らはジェイムス・ブラウン、ジョン・クーガ−を演奏していたがレスは彼らの音楽は一切知らずただ即興でそれらしく合わせていただけだった、しかしトミー・クランク・バンドは週に3〜5回、4時間以上の練習を行っていたためレスは即興演奏に強くなりテクニックも一気に身に付いた。
そしてレスは21歳になるまで彼らと活動を行っていた。

1984年、レスはバークレーに移り住む、そして掛け持てるだけのバンドを掛け持ちして音楽活動を行っていたが、ほとんどのバンドは彼と比べて下手だったため自分が書き溜めた曲などを演奏する機会がなかった、作詞もしていたが人前に持ち出すことにフラストレイションを感じていて。いざ持ち出して人に歌わしてみると自分の想像していたのとかなり違う曲になったりなどもした。

そんなある日、レスの古い友達トッド・ハスがレスを訪れる、トッドはレスが歌うことを決心して新しくバンドを始めようとしている噂を聞きつけ、そのバンドのギタリストをやらしてくれと頼む、そしてレスは昔の記憶から彼のギターは自分の曲とマッチするだろうと判断し、トッドと共にプライマスの母体となる“プライメイト”を結成(すぐにプライマスに変わるが)。
レスは早速トッドを呼び、自分の作ったデモにトッドのギターを上から重ねた。結果は大成功、レスの思いどおりの音になった。

当時、プライマスのドラマーは流動的だったが、レスはなんとしてでも書き溜めた曲をレコードとして売り出したく自分の愛車を売りスタジオ代にまわしレコーディングをした。
できたレコードは地元のラジオで流れるぐらいだったがファンはたくさんいた。

あるときファンの一人が“君らは最高だよ”と言ったときにレスが“いいや、最悪だよ”と答えたとき調子付いたファンがふざけて“プライマス・サックス(プライマスは最悪だ)”と叫んだときレスは笑顔で“本当?ありがとう”と答えたそうだ。このときからプライマスは“プライマス・サックス(PRIMUS SUCKS)”のキャッチフレーズで活動を行う

しかし1988年にトッド・ハスが家系を築きたいという理由でプライマスを脱退、レスはプライマスの活動を一時休止にする。
それから同じ年にレスは再びブラインド・イリュージョンに加入、このときブラインド・イリュージョンで活動していたギタリストが現在のプライマスのギタリスト、ラリー・ラロンドだった。
レスが加入してすぐブラインド・イリュージョンはCD、“ザ・セイン・アシュラム”をコンバット・レコードからリリース。
その後すぐにラリーをブラインド・イリュージョンから引き抜き自分もバンドを脱退、そしてドラマー、ティム・アレクサンドラーを誘い“新生プライマス”を始動させる。
そしてなんと新生プライマスを結成してわずか数ヶ月の1989年にアルバム“サック・オン・ジス”をリリース、これが受けカレッジ・チャートにランクインする勢いだった。
それからすぐにセカンドアルバム“フリズル・フライ”をレコーディング、そしてメジャーのレコード会社“プラウン・ソング”と契約し“サック・オン・ジス”を再びメジャーからリリースする。
メジャーのロックバン???????花???????ドとして活動を始めたプライマス、レスは更なるパワー・アップを求めカール・トンプソンに六弦のフレットレス・ベースを注文、これがあの一部で有名なレスのトレモロ・アーム付きピッコロベースと並ぶレスのもう一つのシンボル“レインボー・ギター”だ。
アルバム“セイリング・シー・オブ・チーズ”のレコーディングに入る前、カール・トンプソンの誕生日にレインボー・ギターは完成、プライマスの新しい音の核となる。
余談だがレスのレインボー・ギターが世界初の6弦フレットレスベースだそうだ。(著者はスティーブ・ヴェイリ−が世界初の6弦フレットレスべーシストだと思っていた)
ツアー“セイリング・シー・オブ・チーズ”のツアー中、プライマスはU2にライブの前座を務めてくれと頼まれ引き受けるが...U2とプライマス...どちらも最高のバンドに違いないがU2のファンにはプライマスは受け入れられないだろうというレスは予感し的中した。
しかしプライマスはあの憧れの“ラッシュ”の前座を務めたり(ゲディー・リーはレスのベースの上手さに腰を抜かしたそうだ)、ほかにも色んなイヴェントに出演したりバンドとしてはすでに成功していた。
それから彼らはアルバム“ポーク・ソーダ”をレコーディング、このアルバムではレスはウッド・ベース(アップライト・ベース)で弓弾きの腕前を披露している。
1993年、ポーク・ソーダをリリースしてからすぐにビルボードで7位にランクイン、発売から数週間で50万枚売れた。

ポーク・ソーダをリリース後、野外ライブを積極的に行っていたある日、レスは左耳が聞こえなくなった...
しかしその後のレスの活動はめまぐるしく、プライマスの本当のオリジナルメンバー、トッド・ハス、ジェイ・レインと共にもう少しメロディックなサイドプロジェクト“ソーセージ”を結成。

プライマスはその後すぐに1994年のウッド・スットクに出演。
1995年にプライマスはアルバム“テイルズ・フロム・パンチブロー”をリリース、そしてプライマスのファーストシングル“ウィノーナズ・ビッグ・ブラウン・ビーバー”をリリースそしてグラミー賞をとる。
“テイルズ・フロム・パンチブロー”はビルボードチャートで8位を獲得。

サイドプロジェクトなど他のバンドをフィーチャーしたりなどやっていたことが多すぎるので省かしていただくが、重要なハプニングといえば1996年にドラマーのティム・アレクサンドラーがプライマスを脱退しブライアン・マンティアが加入し“ザ・ブラウン・アルバム”を1997年にリリースしオジ−・オズボン主催の“オズ・フェス”に再結成した“ブラック・サバス”と共に出演。

1999年には7枚目のアルバム“アンティ・ポップ”では親友のカーク・ハメットや“レイジ・アゲンスト・ザ・マシーン”のトム・モレロ、“リンプ・ビズケット”のフレッド・ダーストなど数多くのミュージシャンがゲストで参加した。(レスはリンプのセカンドアルバムにゲストヴォーカルとして参加した)

アンティ・ポップのリリース後レスは“ザ・ポリス”のドラマー、スチュワ−ト・コープランドと“フィッシュ”のギタリスト、テリ−・アナスタシオと1994年から計画していた“オイスターヘッド”を結成。オイスターヘッドはニューオリンズのジャズ・フェスティバルなどに出演。

それからレスはソロ・プロジェクト“ザ・フロッグ・ブリゲード”を始める。が2000年10月にレスはドラマーのブライアン・マンティアがバンドを抜けたこと発表。それからすぐにギタリストのラリー・ラロンドも突然“面白くない”と言ってプライマスを離れる。このことに対してレスは“ラリーは最近違う世界にいて何を考えているか正直よくわかっていなかった”。

プライマス解散...
誰もがそう思った。プライマスがなくなってもレスは相変わらずオイスターヘッドなど他にも数え切れないほど色んな人達といろんなバンドを掛け持っていた。

だが...

2003年プライマスはニューアルバム“アニマル・シュッド・ナット・アクト・ライク・ピープル”をラリーとブライアンの前のドラマー、ティムというラインナップでリリース。
音としては変態度がかなり増してしまい(笑)。ファンによっては引いてしまうのではというぐらいだ。

すでに2004年にはツアーをすることになっていて、 これからもレスの予測不可能な活動が楽しみでである。

Reported by yukiさん

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